【9割が知らない】上海事件のヤバい裏側!たった2つの事件が今日の日中関係史を決定づけた歴史的背景
「上海事件って何?」今さら聞けないあなたへ。この記事を読めば全てがわかる!
「上海事件」という言葉、歴史の授業で聞いたことはあるけど、正直よく覚えていない…。そんな経験はありませんか?
「なんだか難しそうだし、昔のことでしょ?」 「日中関係のニュースは見るけど、歴史的背景までは…」
わかります。私も昔はそうでした。テストに出る単語として覚えただけで、その事件がどれほど現代の私たちに関わっているかなんて、考えたこともありませんでした。
でも、もし「上海事件」の真相を知ることで、今ニュースで見る日中関係の”なぜ?”がスッキリ解消されるとしたら、知りたくありませんか?
この記事では、単なる歴史の解説にとどまりません。
- なぜ「上海」という街が事件の舞台になったのか?その特殊な背景
- 実は2つある「上海事件」。それぞれの目的とヤバすぎる中身の違い
- 国際社会は当時、日本をどう見ていたのか?
- 上海事件が、現代にまで続く日中関係史にどう影響しているのか
といった、一歩踏み込んだ「なるほど!」と思える情報が満載です。この記事を読み終える頃には、あなたは上海事件の専門家になり、友人や家族に「実はさ…」と語りたくなる知識を手に入れているはずです。
結論:上海事件は、日中関係を「後戻りできない戦争」へと突き落とした決定的な転換点だった
小難しい話は抜きにして、まずは結論からお伝えします。
上海事件とは、大きく分けて「第一次上海事件(1932年)」と「第二次上海事件(1937年)」の2つを指します。 これらは、単なる軍事衝突ではありませんでした。
- 第一次上海事件は、満州事変から世界の目をそらすための日本の謀略的な側面が強く、日中両国の対立感情を決定的に悪化させました。
- 第二次上海事件は、盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争を、交渉の余地がない全面戦争へと拡大させる引き金となりました。
つまり、この2つの事件は、段階的に日中関係を泥沼化させ、破滅的な戦争へと導いた、歴史の大きなターニングポイントだったのです。そして、この事件の舞台が、当時「魔都」と呼ばれた国際都市・上海であったことが、事態をさらに複雑で深刻なものにしました。
「上海事件」は1つじゃない!知らないと恥ずかしい第一次と第二次の決定的違い
「上海事件」と一括りにされがちですが、実は1932年の「第一次」と1937年の「第二次」は、その性格も規模も全く異なります。 ここを混同していると、歴史の流れを完全に見誤ってしまいます。プロの視点から、この2つの違いを表で分かりやすく整理してみましょう。
| 項目 | 第一次上海事件 (1932年) | 第二次上海事件 (1937年) |
|---|---|---|
| 発生年 | 1932年1月28日〜 | 1937年8月13日〜 |
| きっかけ | 日本人僧侶襲撃事件 | 日本海軍将校射殺事件(大山事件) |
| 主な目的 | 満州事変・満州国建国から国際社会の目をそらす | 盧溝橋事件後の戦線拡大、首都・南京攻略の足がかり |
| 戦闘規模 | 限定的な市街戦(ただし激戦) | 日中両軍の総力を挙げた大規模な全面戦争 |
| 中国側の対応 | 第十九路軍が中心の局地的な抵抗 | 蔣介石率いる国民政府軍による徹底抗戦 |
| 結果 | 上海停戦協定の締結、日本軍は撤退 | 日本軍が上海を占領、首都・南京へ侵攻 |
| 日中関係への影響 | 反日感情の決定的な高まり、国際的非難 | 日中全面戦争の泥沼化、第二次国共合作の成立 |
第一次上海事件(1932年)- 満州事変の「目くらまし」
1931年、日本は満州事変を引き起こし、満州全土を占領下に置きました。 当然ながら、国際社会からは厳しい非難の目が向けられます。
SNSで誰かが炎上した時、別の大きなニュースが出てくると、人々の関心がそちらに移ることがありますよね。実は、当時の日本軍部が考えたのも、まさにそれでした。
「満州から世界の目をそらすために、もっとインパクトのある場所で事件を起こせないか?」
その白羽の矢が立ったのが、国際都市・上海だったのです。
きっかけは、1932年1月18日に起きた日本人僧侶の襲撃事件でした。 これを口実に、日本海軍の陸戦隊が出動し、中国軍と衝突。第一次上海事件が勃発します。 しかし、この僧侶襲撃事件自体が、日本の関東軍の依頼を受けた人物による謀略だったという説も根強くあります。
日本側の思惑とは裏腹に、中国軍(第十九路軍)の抵抗は予想以上に激しく、戦闘は泥沼化。 最終的に日本は多大な犠牲を払って勝利したものの、国際的な非難はむしろ高まり、5月には停戦協定を結び撤退することになります。 この事件は、日中関係史において、両国の国民感情を決定的に悪化させる大きな傷跡を残しました。
第二次上海事件(1937年)- 後戻りできない全面戦争への扉
第一次から5年後の1937年、日中関係はさらに悪化していました。 同年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日中間の戦闘が始まっていました(当時はまだ「北支事変」と呼ばれ、不拡大方針が取られていました)。
そんな中、8月9日に上海で日本の海軍陸戦隊の中尉らが中国保安隊に射殺される「大山事件」が発生します。 この事件をきっかけに、8月13日から日中両軍は上海で本格的な戦闘に突入。これが第二次上海事件です。
第一次と決定的に違うのは、これが「目くらまし」などではなく、日中両国の存亡をかけた総力戦だったという点です。
- 日本: 当初の方針を転換し、「暴支膺懲(暴戻な支那軍を懲らしめる)」を掲げ、本格的な戦争に突入。
- 中国: 蔣介石は徹底抗戦を表明し、ドイツ式の訓練を受けた精鋭部隊を上海に投入。
この戦いは約3ヶ月に及び、双方に数十万人規模の死傷者を出す、日中戦争の中でも最大級の激戦となりました。 日本軍は最終的に上海を占領しますが、その代償はあまりにも大きく、この勝利が結果的に首都・南京への無謀な進撃(そして南京事件)へと繋がり、戦争をさらに泥沼化させていくのです。
なぜ上海だったのか?事件の歴史的背景に隠された「魔都」の特殊事情
「なぜ、満州から遠く離れた上海で、これほど大規模な事件が起きたの?」
そう思いませんか?その答えは、当時の上海が、世界のどこにもない「超・特殊」な都市だったからです。
当時の上海は、単なる中国の一都市ではありませんでした。アヘン戦争後の南京条約(1842年)によって開港され、イギリス、アメリカ、フランスなどの列強が「租界」と呼ばれる特別なエリアを築いていました。
当時の上海の姿
- 租界: 外国人が行政権や警察権を持つ、事実上の「治外法権」エリア。中国の法律が及ばないため、様々な人やモノ、金が流れ込む。
- 国際都市: 各国の企業や銀行が立ち並び、世界中の人々が暮らすアジア随一の経済・金融センター。
- 魔都: 華やかな文化が花開く一方で、アヘンやスパイ、犯罪が横行するカオスな一面も持つ。
つまり、上海は「中国の中にある、中国ではない場所」だったのです。日本もこの共同租界に多くの居留民を抱え、経済的な権益を持っていました。
このような場所で軍事衝突が起きれば、どうなるでしょうか?
- . 国際問題に発展しやすい: 列強各国の権益が集中しているため、単なる日中二国間の問題では済まされません。
- . プロパガンダ効果絶大: 世界中のメディアが集まっているため、ここで起きたことは瞬く間に世界中に報道されます。
- . 経済的打撃が大きい: アジアの経済ハブを攻撃することは、相手国に大きな経済的ダメージを与えられます。
- . 中国全土での抗日運動の激化: 満州を奪われた中国では、国民の怒りが爆発。各地で日本製品のボイコット(排日貨運動)など、激しい抗日運動が巻き起こりました。 特に上海は、その中心地の一つでした。
- . 国際社会からの非難: 日本の軍事行動は、国際連盟やアメリカなどから厳しい非難を浴びました。 日本は国際的に孤立していきます。
- . 軍部の焦りと謀略: 国際的な批判をかわし、国内の目をそらすため、関東軍は上海での「新たな事件」を画策します。 これが、第一次上海事件の直接的な引き金となりました。
- 国際連盟: 中国からの提訴を受け、日本の軍事行動を非難。リットン調査団を派遣するなど、問題解決に乗り出そうとしますが、日本はこれを無視する形で満州国を建国。
- アメリカ: 満州事変に対し、日本の行動を認めないとする「スティムソン・ドクトリン」を発表しており、上海への戦火拡大にも当然、批判的でした。
- イギリスなど: 上海に大きな権益を持つイギリスなども、自国の租界に戦火が及ぶことを懸念し、日本に対して強い抗議を行いました。
- 中国側から見た歴史: 上海事件は、日本の侵略によって引き起こされた、多くの犠牲者を出した悲劇的な戦いとされています。 特に第二次上海事件は「淞滬会戦(しょうこかいせん)」と呼ばれ、抗日戦争における象徴的な戦いの一つとして記憶されています。
- 日本側から見た歴史: 当時の日本では、これらの衝突は中国側の抗日活動に対する自衛的な措置、あるいは権益保護のためと報道されました。 特に第二次上海事件では、多くの日本人居留民が危険にさらされたことも事実です。
- 上海事件は2つある: 第一次(1932年)は満州事変の目くらまし、第二次(1937年)は日中全面戦争への引き金と、目的も規模も全く異なります。
- 舞台は「魔都」上海: 国際的な注目が集まる「租界」という特殊な空間だったことが、事件をより複雑にし、国際問題化させました。
- 日中関係史の決定的な転換点: これらの事件を通じて日中の対立は後戻りできない段階に入り、その後の長期にわたる戦争と、現代にまで続く相互不信の原点となりました。
日本軍部が第一次上海事件の舞台に上海を選んだのは、まさにこの「国際的な注目の高さ」を逆利用し、満州から目をそらさせるためでした。 そして、第二次上海事件で中国側が上海での徹底抗戦を選んだのも、国際社会の同情と介入を引き出し、日本の侵略を世界にアピールするという狙いがあったのです。
このように、上海事件の歴史的背景には、常に「租界」という特殊な存在と、それを取り巻く列強の思惑が複雑に絡み合っていたのです。
満州事変と上海事件の切っても切れない関係性
上海事件を理解する上で、絶対に外せないのが満州事変(1931年)との関係です。この2つの出来事は、いわば「原因」と「結果」、あるいは「第1幕」と「第2幕」のような関係にあります。
すべての始まり、満州事変
1931年9月18日、日本の関東軍は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始しました。 これが満州事変の始まりです。
この事件は、関東軍による自作自演の謀略でした。 日本はこれを機に満州全土を占領し、翌1932年には傀儡国家である「満州国」を建国します。
満州事変が上海事件を生んだメカニズム
満州事変は、ドミノ倒しのように上海事件へと繋がっていきます。
つまり、第一次上海事件は、満州事変という「本筋」から世間の目をそらすための「スピンオフ企画」として仕組まれた側面が強いのです。しかし、このスピンオフが予想外の展開を見せ、日中関係をさらに悪化させる結果を招いてしまいました。
そして、この悪化した関係が土壌となり、盧溝橋事件を経て、5年後の第二次上海事件という、より大規模で破滅的な衝突へと発展していくのです。日中関係史をたどると、一つの事件が次の悲劇の火種となる、負の連鎖が見て取れます。
国際社会はどう見ていた?孤立を深める日本の姿
上海という国際舞台で繰り広げられた日中の衝突を、欧米列強は固唾を飲んで見守っていました。彼らの反応は、日中関係史だけでなく、その後の第二次世界大戦へと向かう世界の大きな流れを理解する上で非常に重要です。
第一次上海事件(1932年)- 高まる日本への不信感
満州事変で既に日本に不信感を抱いていた国際社会にとって、第一次上海事件は「火に油を注ぐ」行為でした。
特に、中国が国際連盟に日本の侵略を訴えている真っ最中に、上海という国際都市で新たな軍事行動を起こしたことは、日本の国際的信用を大きく損ないました。 この事件は、翌1933年の日本の国際連盟脱退へと繋がる、大きな要因の一つとなったのです。
第二次上海事件(1937年)- “見て見ぬふり”と非難の狭間で
日中全面戦争の始まりとなった第二次上海事件では、国際社会の反応はより複雑になります。
中国側の爆撃機が誤って共同租界を爆撃し、多数の外国人民間人が死傷する事件が発生しました。 これにより、当初は中国への同情論だけでなく、その無差別な攻撃への批判も起こりました。
しかし、戦いが激化し、日本軍の圧倒的な火力による攻撃や、その後の南京事件などが伝わるにつれて、国際世論は明確に日本を非難する方向へと傾いていきます。
> SNSの声(創作)
> 「当時の海外ニュース映像を見たけど、上海の街が破壊されていく様子が衝撃的だった。これがきっかけで、アメリカ国民の対日感情が一気に悪化したっていうのも頷ける。」
しかし、この時期の欧米諸国は、ナチス・ドイツの台頭などヨーロッパ情勢に手一杯で、極東の問題に本格的に軍事介入する余力はありませんでした。非難はするものの、具体的な行動は取れない、というジレンマに陥っていたのです。
この国際社会の”及び腰”が、結果的に日本の軍事行動を助長した側面は否定できません。そして、この時に深まったアメリカとの対立が、数年後の太平洋戦争へと繋がっていくことになります。上海事件は、日中関係史のみならず、世界史の大きな転換点でもあったのです。
上海事件が現代に与える影響 – 日中関係史から私たちが学ぶべきこと
「昔の戦争の話でしょ?」と思うかもしれません。しかし、上海事件という歴史的背景を知ることは、現代の日中関係を読み解く上で、驚くほど役に立ちます。
根深い相互不信の原点
今日のニュースで日中間の領土問題や歴史認識問題が取り上げられるたびに、両国の間に横たわる深い相互不信を感じることがあります。その原点の一つが、まさに満州事変から上海事件、そして日中戦争へと至る一連の出来事にあります。
どちらか一方が絶対的に正しく、一方が間違っている、と単純に割り切れるものではありません。しかし、一連の事件が中国の人々に大きな傷跡を残し、その後の日本の行動(南京事件など)が、その傷をさらに深くしたことは、歴史の事実として理解しておく必要があります。
歴史を知ることで、未来の対話が始まる
「プロならこう考える」という視点でお話しすると、歴史問題は「どちらが正しいか」を議論するよりも、「なぜ相手はそう考えるのか」という歴史的背景を理解することから始めるべきです。
例えば、中国がなぜ日本の歴史教科書問題や政治家の靖国神社参拝に強く反発するのか。その背景には、上海事件をはじめとする一連の侵略の歴史があり、「日本は過去を正当化しようとしているのではないか」という根強い不信感があるのです。
これを理解せずに、「いつまで昔のことを言うんだ」と反発するだけでは、対話は始まりません。
上海事件という具体的な歴史を知ることは、私たち一人ひとりが、より深く、そして冷静に現代の日中関係を考えるための「羅針盤」を与えてくれます。感情的な言葉に流されず、歴史的背景を踏まえて物事を多角的に見る力。それこそが、この複雑な時代を生きる私たちにとって、最も重要なスキルなのかもしれません。
まとめ
最後に、この記事の要点をまとめます。
歴史を学ぶことは、単に過去の出来事を暗記することではありません。過去の人々が何を考え、なぜそのように行動し、その結果何が起こったのかを知ることで、現代社会が抱える問題の根源を理解し、未来をより良くするためのヒントを得るための営みです。
この記事が、あなたが「上海事件」そして「日中関係史」というテーマに興味を持ち、自分なりに考えてみるきっかけとなれば、これほど嬉しいことはありません。
